2008/11/30
浜松の知人の案内で静岡県と愛知県の県境周辺の史跡を訪ねる。知人の豊かな見識とともに、古のつわものどもの史跡に立ち、思いを馳せる機会を得た。
知人の見せたいという気持も嬉しく、素晴らしい時間を共有でき、知らなかったことを見させてもらう幸せを感じる。己のジグソーパズルが僅かながら繋がる思いだ。
現在の愛知県新城市近辺にある長篠の戦(1575年)の地に向う。武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は徳川家康は同盟者の織田信長と出陣し、戦場となった設楽原(したらがはら)で戦う。
織田信長は武田騎馬軍団に対し、馬防柵で備え、馬防柵の後方には3,000丁の火縄銃を持った鉄砲隊を3列に並ばせ、間断なく射撃し、鉄砲の威力を見せつけ、武田勝頼は戦死した。
下の写真のこちら側が家康・織田軍、向こうに見える山には武田軍が対峙する。
設楽原に立ち、往時の戦いの雄叫びが聞こえるようだ。ここの村の人々は戦場で命果てたつわものどもを弔い、信玄塚に葬る。今も武田軍と徳川・織田軍の供養を欠かさない。
1575年(天正3)の長篠合戦(ながしののかっせん)では,武田軍と織田・徳川連合軍の双方に
多くの戦死者がでたので,村人は戦没者を信玄塚に手厚く葬った。しかし,夏に信玄塚より多くの蜂が発生して人馬に害を与えたため,村人たちは蜂を武田軍の戦死者の亡霊と考え,大施食とともに松明(たいまつ)をともして供養したことが火踊りの始まりとされている。
お盆には各戸で作成した,大きいものでは高さ3メートル,周囲2メートル以上ほどの大きささになる松明を信玄塚の周囲で点火し勇猛果敢に振り回し活気づけ,お祭りをもりあげる。(愛知の郷土史、偉人、祭り、伝統産業より転載)