2008/6/12 仕事で茶畑一面の牧之原市に向う。開港間もない富士山静岡空港がある牧之原市には徳川家治時代の老中 田沼意次の居城があった。田沼意次は第8代将軍の徳川吉宗に登用され小身旗本となった。意次は第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢された。
宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)にはさらに5,000石加増、御用人から側用人へと出世し従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。
安永元年(1772年)、相良藩5万7,000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増で僅か600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。
天明6年(1786年)8月27日、反田沼派の松平定信らの陰謀によって老中を辞任させられ、雁間詰に降格された。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収されて3万7000石にされ、さらに大坂にある蔵屋敷の財産も全て没収され、さらに江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
田沼意次は新たに江戸の木挽町にある粗末な屋敷を与えられてそこで蟄居を命じられた。同時に田沼派として要職にあった面々もことごとく松平定信ら反田沼派によって失脚させられた。居城の相良城も明け渡しを命じられ、幕府によって破却させられてしまったのである。(ウィキペディアより転載)
賄賂政治家として悪名高いが、真実の程は分らない。歴史は時の権勢により都合よく塗り替えられる。人間やることいつの時代も変わらない。