2008/4/1 歴史上、海外で足跡を残した日本人に関心を持っていたら、BS日テレのヨーロッパ水紀行Ⅱ『古都セビリアの旅』でたまたま支倉常長について知る機会となった。
仙台藩主、伊達政宗の命を受け、慶長遣欧使節団は宣教師のソテロを正使、支倉常長を副使とした日本人140名(政宗の家臣、上方の貿易商人、幕府の役人など)、スペイン人40名で構成され、スペイン のサンルーカルとセビリアの間にあるグワダルキビル河に沿うコリア・デル・リオの町に上陸。上陸を記念して,支倉常長の銅像がグワダルキビル河の河川敷公園の真ん中にある。
コリア・デル・リオで何人かの日本人が残り、後々ハポンという名前がついたスペイン人が多くいることになる。1613年、一行は仙台領の月の浦(宮城県石巻市)から、太平洋・大西洋を日本人で初めて横断し、メキシコ、スペイン、ローマへと渡ります。この大航海の目的はメキシコとの通商と宣教師の派遣(はけん)をスペイン国王とローマ教皇に要請することでした。
しかしこのころから日本ではしだいにキリシタン弾圧が厳しくなってきているという情報が、教皇のもとに届いていました。そのため常長たちの努力もむなしく、ほとんど成果を得られないままに帰国しなければなりませんでした。しかも、彼らがようやく帰国した1620(元和6)年には、日本では全国的にキリスト教が禁止され、信者たちは次々と処刑されるという厳しい時代となっていた。(お台場鈴ネット&スペインより転載)
時代が流れて、最初の意図はいれられず、時代は変りキリスト教弾圧となり、今まで許されていたことが許されない時代へと変遷し、時の支配者に翻弄させられる被支配者の無常を感じる。
セビリア大聖堂でコロンブスの棺を担ぐ4人の王の足元でイスラムの最後の砦であるグラナダを征服した象徴として石榴を槍で刺している映像があったが、セビリア大聖堂に行った折り、そこまで知らなかった。肝心なところを見逃しているようだ。