2006/5/24 審査で坂東市に赴く。ここへは東京駅八重洲南口からバスで1時間半、便利である。今回は静岡~茨城県坂東市~大阪府天王寺~静岡のコース。
ここ坂東市は旧岩井市を含み、平将門の営所があったところ。平将門祭りもある。本屋さんには将門コーナーがあり、童門 冬二著の平将門を求める。将門煎餅や将門味噌もある。審査ではほとんど初めての地を訪れることが多い。そのたびに発見があり楽しみでもある。
将門は地方より平安京へ出て、天皇と関係の強い藤原北家の藤原忠平と主従関係を結ぶが、父良将が急死したために領国へ戻る。長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の国香(國香)や良兼に独断で分割されていた。これが争いの元。
そういえば国香という銘柄の日本酒が静岡県袋井にありますが関係あるのでしょうか。今年2002年度も静岡県新酒鑑評会で吟醸酒部門で第一位(県知事賞)を獲得したそうです。飲んでみましたが、私には酒の旨さが残念ながら分りません。
935年2月に将門は源護の子・扶に常陸国真壁郡野本(筑西市)で襲撃されるが、これを撃退した将門は護の一族を伐ち、更に護の援軍として駆けつけた伯父の平国香も伐つ。
これを発端に親族同士の争いが続き、平将門は朝廷に釈明するも朝廷は平良兼、平貞盛、源護らに対して将門追討令を出す。将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。
さらに平将門は「新皇」を名乗り、岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。この地には国王と名のつく神社がある。国王神社は、平将門が怨霊となって祟ることを恐れ、神として祀ることで慰撫しようとしたもので、御霊信仰に基づいて創建された。将門は中央貴族にとっては反逆者だが、当時の関東人にとっては中央に反抗した英雄として人気をもつようになっていった。
これに危機感を抱いた朝廷は、全国の民に将門の首を取った者は貴族とする旨の通達を出した。その2箇月後、940年に仇敵国香の息子、平貞盛と藤原秀郷との会戦中に、平将門は流れ矢に当たって死んだとされる。
その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのは、東京・大手町の首塚である。
なお、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正が、対将門勢の士気を鼓舞するために祈祷を行ったとされ、成田の成田山新勝寺はその「言い伝え」によって建てられた寺院である。
このため、将門とその家来の子孫は、1080年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。生い立ちにもある佐倉市将門に古くから住む人々も、参詣しない家が多く残るし、かつて政庁が置かれた坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。出典: フリー百科事典『ウィキペディアより抜粋 発見いばらぎHPより抜粋