友人夫妻と伊勢神宮に参る。
友人は神話伝説に詳しく、ろくに知らなかった日本神話を学ぶ機会となる。
太陽の神といわれる天照大神を祀る内宮と天照大神の食事を司とる豊受大神を祀る外宮を中心に125の宮社で構成される。
個人的なお願いをするところではなく、感謝の気持ちを捧げるという。
天孫・邇邇芸命が降臨した際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀
』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。
三種の神器とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を指す。
この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれ、天皇自らが観察していたという。
八咫鏡は第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、その後各地を移動した。
垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。
倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。
『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とある。
皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されているのが、内宮起源説話である(元伊勢伝承)
記紀神話によれば八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際、石凝姥命が作った。
天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映して、興味を持たせ、外に引き出した。
そして再び高天原と葦原中国は明るくなったという。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された、という。
この話は崇神天皇6年の条から続き、『
古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。
移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。
なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。(ウイキペディアより転載)