文春オンラインによれば橋田壽賀子氏は「子どもがいないから可哀そう」と言った友人の可哀そうな最後と歯に衣着せぬ記事がでる。
記事によれば、かりに親が健在だったら、私はこう言います。
「老後の世話をするのは嫌だから、自分のお金でちゃんと自分の始末をしてほしい。その代わり、遺産は一銭も要らないわ」
冷たいですか? でも、もしも子どもがいたならば、
「自分の最期は自分で準備するから、あなたに面倒を見てもらうつもりはない。自分で稼いだお金は全部使って死ぬから、遺すつもりもない」と告げたでしょう。
世の中の親は我が子のために節約を重ね、少しでも財産を遺そうとします。
しかし私は反対です。
私の知人の女性は、旦那さんを亡くしたあと、お姑さんの面倒を見ながら息子と娘を育てました。
息子のお嫁さんも娘も働いていたので、幼い孫たちをよく預かっていました。
そうやって家族の世話をすることが、彼女の生き甲斐でした。
いつも私に、「壽賀子さんは可哀そうだ。子どもがいないから」と言いました。
同情が如何に相手を追い込むか、心のひだが分からない。
子どもがいなくてよかったと思っている私には、彼女こそこき使われて可哀そうに見えたのですが、何も言わずにいました。
やがて彼女は、長男一家と一緒に暮らすつもりで3階建ての二世帯住宅を建てました。
ところがそのあとになって、お嫁さんが「一緒に住むのは嫌だ」と言い出したのです。
「息子も娘も会いに来てくれない。孫だって、あんなに面倒見てやったのに、ちっとも寄り付かない」とこぼすようになった彼女を、「子どもや孫が可愛くてやってあげたんだから、いいじゃない。あとの人生は自分の好きなことをしなさいよ」と慰めたものです。
しかし家族に尽くすだけの人生を送ってきた彼女には、別の生き甲斐が見つかりませんでした。
そのうち、「壽賀子さんは、独りを覚悟しているからいいね」と言うようになり、八十歳をすぎたばかりなのに、広い二世帯住宅で孤独死しました。
成人した我が子は、新しい家族と新しい生活を築くのが当たり前です。
彼女は、期待をかけすぎてしまったのでしょう。
口では「子どもの世話になんか、なりたくないですよ」と言う人が多いですが、みなさん心の中では期待しているんじゃないですか。
けれども、裏切られた期待は、恨みに変わることがあります。
期待さえしなければ、思いがけず感謝が生まれる場合もあるのです。
「お金を遺してあげるから、老後は面倒見てね」と見返りを求めるくらいなら、最初からそのお金で介護の人を雇うべきです。
子供もまた、親に頼らず、親のお金を当てにしないこと。
最近の男はマザコンが多いくせに、親の老後の面倒を見ようとしません。
「お金は遺して欲しいけど、世話はしたくない」なんて、もってのほかです。
大切なのは、親が元気なうちによく相談をして、老後や最期の迎え方についてどう考え、葬式や墓をどうしたいと思っているのか、知っておくことです。
よく話し合っておかないとお互いに誤解が生まれ、それが恨み節へと変わるのです。
なるほど橋田壽賀子氏の話は刺激的ではあるが、色々な話を知り合いから聴いていると、身内の人間関係で思い通りいかない晩年を見る。
晩年が安らかであるように、利害関係者の賢い配慮が期待される。
遠くを見てお互いに禍根を残さないよう努めたい。
橋田壽賀子氏に、痛烈に『それみたことか』と詰られたくはない。