テレビ朝日「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺」が面白い。
今回は明智光秀の娘で細川忠興の正室『細川ガラシャ』をとりあげる。
「ガラシャ」は、アルファベットでは「Gratia」と書き、ラテン語では「神の恵み・神の恩寵」という意味。
細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。
キリスト教信徒(キリシタン)として有名。
天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。
忠興は天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。
慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。
忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。
この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。
その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。
家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。
その後、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。(ウイキペディアより転載)
『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世の句
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
戦国時代の辱めを受けるより死を恐れぬ覚悟を知る。