鶴崎の帰途、車で大分城址を垣間見る。
タクシーの運転手さんから大分城の蘊蓄をうかがう。
大分城があった豊後府内は大友氏の居城であったが、大友吉統は文禄の役で卑怯なる振る舞いをしたとされ、豊臣秀吉の怒りを買って改易された。
1600年の関ヶ原の戦いで、豊後高田領主の竹中重利ははじめ西軍に与して田辺城の戦いに参加したが、後に東軍に寝返ったため、戦後に徳川家康からから賞されて高田1万石から府内2万石に加増移封され、府内藩の藩祖となった。
重利の跡は子の重義が継いで徳川秀忠の寵を得たが、罪を得て改易された。
代わって下野国壬生藩より日根野吉明が2万石で入るが、1656年に無嗣改易された。
その後、豊後高松藩より松平忠昭が2万1000石で入り、以後は大船松平家が10代にわたって支配し、明治維新を迎えた。(ウイキペディアより転載)
武士社会の栄枯盛衰は現代の企業社会でも通じ、切なくなる。