ISOの研修会の前に国立西洋美術館で開催しているスイスの国民画家 フェルディナント・ホドラー展を鑑賞後、田町に向かう途中、御徒町に入る手前で摩利支天の幟を見つける。
以前から幟が気になり御徒町で下車し摩利支天 徳大寺に向かう。
日本三大摩利支天の一つ。
古来より武士の守護神として尊崇されている。
「日本三大摩利支天」は金沢の宝泉寺(ほうせんじ)、上野アメ横の徳大寺(とくだいじ)、そして京都建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)禅居庵(ぜんきょあん)である。
真言宗、日蓮宗、臨済宗と宗派は異なるが、それそれの摩利支天に独白の由緒があり、また像のかたちも異なっている。
我が国の摩利支天信仰の大部分は、修験道を含む民間信仰の類とともに密教系、日蓮系、臨済系のいずれかに集約されるようだ。
アメ横の通りにあることを知る。
午前中にも関わらず、通りは人でいっぱい。
摩利支天徳大寺は日本三大摩利支天のひとつとして、江戸時代から下谷広小路(現、上野広小路)において、聖徳太子の御作と伝わる摩利支天像をお祀りしている。
摩利支天(マリシは「威光・陽炎」の意)とは、仏教を守護する天部の神で、参詣祈願の人々に「気力・体力・財力」を与え、「厄を除き、福を招き、運を開く」、諸天善神中もっとも霊験顕著な守護神であると伝えられる。
その姿が猪の背に立つことから、古くより十二支の亥の日がご縁日とされてきた。
人が摩利支天の名を知り念ずれば、一切の災厄から逃れ勝利の功徳を得るとして、我が国においては中世以降、武士階級の守護神として摩利支天への信仰が広まる。
楠木正成や足利尊氏、毛利元就や徳川家康などの武将たちは、摩利支天の尊像や旗印と共に合戦に出陣したと云われ、『忠臣蔵』で知られる大石内蔵助も髷の中に摩利支天の小像を入れて討ち入りに臨み、本懐成就を遂げたと伝えられる。
諸難を退け勝利に導く、武門の護り厚き守護神として、町人文化が栄えた江戸時代中期以降には、民衆の間にも摩利支天信仰が盛んとなる。(摩利支天大徳寺ホームページより転載)