長野から長野新幹線で熊谷で降りる。次の仕事先は行田。長野新幹線の熊谷停車は少なく不便。乗った長野新幹線は軽井沢から大宮へと走る。
熊谷駅前に熊谷直実の銅像がある。ここ熊谷は熊谷直実の出生地であり、往生した場所であることを知る。
埼玉県熊谷市仲町にある浄土宗の熊谷寺(ゆうこくじ)が、その場所という。
源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。
寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いに参加。この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、名将の源義経の奇襲部隊に所属。鵯越を逆落としに下り、息子小次郎直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。しかし平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。
一の谷の戦いで平敦盛を呼び止める直実『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波打ちぎわを逃げようとした、平家の貴公子平敦盛を呼び止め、一騎打ちをする。直実が敦盛をむんずと取っ組んで、馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子小次郎ぐらいの年の若武者だった。直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたかな」と言うと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」とけなげに答えた。これを聞いて直実は、一瞬敦盛を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。
この後首実検して平敦盛と判明、やんごとない貴公子であったと分かった。このことがあってから、直実の仏門に帰依する思いは、いっそう強くなったと平家物語に書かれている。(ウイッキペディアより転載)