2009/7/5 源頼朝が征夷大将軍になるも源氏も3代で消滅。その後源頼朝の妻 北条政子が鎌倉幕府を動かす。北条家は将軍職を継がず、京都から将軍を迎え、自らは執権となる。
1326年(嘉暦元年)、14代執権北条高時が病気で辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが、慰留を命じられる。
後継を定めない高時の出家は、次期執権に高時の子の邦時を推す内管領の長崎氏と、高時の弟の北条泰家(のちの時興)を推す外戚の安達氏が対立する得宗家の争いに発展する。
3月16日、貞顕は内管領長崎高資により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて15代執権に就任する。貞顕の執権就任に反対した北条泰家は出家し、これにより貞顕暗殺の風聞まで立ったため、貞顕は同月26日に執権職を辞職し出家する(法名は崇顕)。16代執権には北条守時が就任した。一連の騒動は嘉暦の騒動と呼ばれる。
1333年(元弘3年、正慶2年)、後醍醐天皇の倒幕軍に味方した足利高氏(尊氏)の京都の六波羅探題攻略のあと、新田義貞率いる軍が鎌倉を攻める。貞顕は最後の15代当主高時と北条一門とともに北条氏の菩提寺である鎌倉・東勝寺で自刃した。享年56。鎌倉時代は幕を閉じる。(ウイッキペディアより転載)