2009/4/27 赤湯温泉の旅館『御殿守』では、縁のある方々をホームページで紹介したり、館内でも業績や作品を見ることができる。
その中のお一人に斉藤茂吉氏がいる。女将さんのホームページの一部を紹介すると『茂吉先生は、当時、洋画家の金山平三先生と一緒に、二日と空けずに私の家へいらっしゃいました。私の父は庄司精一郎といい、「やまに」という造り酒屋をしておりましたが、茂吉先生方がいらっしゃった時は、昼下がりから夕方すぎまで、いろいろと歓談しておりました。
当時15~16歳の私を、茂吉先生は「お嬢さん」と呼び、いつも家の裏口から入ってきたのを覚えています。そのいでたちはというと、ホームスパンを着て、バケツとたらばす(米俵の頭の部分)を持っており、バケツは山中でのはばかり用に、たらばすは座布団替わりというもので、若い私の目には、風采の上がらない印象で映ったものでした。飄々とした中にも、敗戦の苦しみがあったからかも知れません。
茂吉先生は、うなぎとそばが大好物でした。よく家でつくって差し上げたのですが、後の病床の折り、「やまににまた行きたいなあ」とおっしゃっていた事を後で知り、嬉しくもあたたかい想いをいたしました。その時は、父が桜桃で見舞い、有志数人で綿入れの丹前をつくったりいたしましたが、茂吉先生におかれましては、大変喜んでいただけたようでした』
女将さんと斉藤茂吉氏との当時の思い出からほのぼのとした交流が読み取れ、よく知らなかった斉藤茂吉氏を身近に感じる。
斎藤 茂吉氏(さいとう もきち、1882年5月14日(戸籍では7月27日) - 1953年2月25日)は、山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)出身の歌人、精神科医である。伊藤左千夫門下。大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。長男に斎藤茂太、次男に北杜夫、孫に斎藤由香がいる。また、妻の弟齋藤西洋の妻の兄は堀内敬三という華麗な一族。
帰り際、表で送っていただいた方が女将さんであることをホームページの顔写真で後から知る。
凛とした立ち居振る舞いに、旅館を預かる覚悟が感じられた。