井上登の80代人生論 ~ 仕事・地域・家庭・個人、4つのバランス人生:静岡の日本史
2024-02-02T09:58:17+09:00
drss0123noborui
ライフワーク『ライフ・マネジメント・システム(LMS)』 履歴【井上ISOコンサルティング、JQA/ISO審査員、NACS代議員、青葉LC、行政環境審議委員、製品安全協会(SGマーク)マニュアル委員、大道芸ワールドカップ審査委員、シルバー・サポーター 趣味【ロックアート(石芸)、講談、俳句】取材/講演等のご依頼などは、drss0123noborui@ybb.ne.jp までお願いします。
Excite Blog
静岡の日本史シリーズ 『麻機(あさはた)』
http://drss.exblog.jp/30371275/
2024-02-02T08:15:00+09:00
2024-02-02T09:58:17+09:00
2020-12-26T05:26:18+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
住んでいる『麻機』の日本史を垣間見る。
通称麻機街道、県道74号線。
新東名新静岡インターにアクセス。
約5分。
麻機の地名は昔、朝鮮から秦氏一族が渡来し住みつき麻を機で織ったということが由来とか。
家から見える賤機山には残月を見る。
賤機山には6世紀ごろの豪族の古墳があり公開された石棺を見たことがある。
遠景では竜爪山を背景にした新東名の橋梁が美しい。
麻機は賤機山の正面にあり、隣の竜爪山の裏口にあたる。
竜爪山は北側の薬師岳(標高1,051m)と南側の文珠岳(標高1,040.8m)からなる。
ここから見える橋梁(猿田川橋・巴川橋)は土木学会で田中賞を受賞。
PC複合トラス橋。
橋梁・鋼構造工学に関する優秀な業績に対して授与されると聞く。
大型トラックが物流を支え車列を組み行き交う。
ミニチュアカーをみるかのよう。
静岡浅間神社につながる賤機山の尾根にかかる靄が千変万化。
静岡浅間神社は延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀された。
静岡浅間神社に分祀の際、麻機に一旦仮置きしたという北浅間神社がある。
雲は次々と形を変え、止まることはない。
二級河川の巴川の上流地域に位置し台風では轟音が轟く。
炬燵に座ってぼんやり空を見ていると巴川沿いにシラサギが飛んでいく。
野鳥の宝石といわれるカワセミが川沿いを一直線に飛ぶ。
近くには野鳥の宝庫といわれる日本の重要湿地500選の麻機遊水池がある。
徳川家康が愛したという『麻機レンコン』が知られる。
『麻機』は徳川家康が駿府城から鷹狩に通ったともいう。
今朝も『あさはたじまん市』で開店早々、『麻機レンコン』に群がる。
私もその一人。
また『麻機』は日本武尊が東征の折り通過したという。
その折、人馬の休憩場所として『皇の池』跡があると伝える。
空を見上げれば国内線の西行きの飛行機が航跡を残す。
]]>
静岡の日本史シリーズ 『鎌倉殿の重臣 梶原景時の最後』
http://drss.exblog.jp/13210811/
2022-01-11T16:20:00+09:00
2022-01-11T17:08:51+09:00
2010-04-26T17:10:48+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
鎌倉時代の御家人、鎌倉殿の重臣である梶原一族が追われ自害した場所と知る。
梶原景時は伊豆国で源頼朝が挙兵し、石橋山で敗れ、土肥山中にかくれたとき、平家方に属していた景時は頼朝主従を見のがしたのち頼朝が成功すると景時は頼朝の寵臣となった。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿を支えた13人の重臣』の一人。
頼朝没後、結城朝光(ともみつ)の讒言により排斥され、鎌倉を逃げだし京都に向かう。
正冶二年(1200)正月であった。
梶原景時はじめ一族郎党三十三人が興津を過ぎ駿河国清見ケ関(清水清見寺町)あたりで、鎌倉の命を受けたこの地方の武士に発見されて合戦となったが、梶原景時、長男景季、弟景高、景国、景宗景則、景連、その他三十三人が全滅した。
このとき梶原父子三人は家来の長尾忠光の介錯で切腹した。
瀬名を流れる天井川の長尾川は長尾忠光に由来するのか。
北街道に添う梶原山が最後の地で梶原山の山頂には梶原親子を供養した塚があり、地元では梶原塚と呼ばれている。
近くに「びん水」という、梶原親子が自害する前に乱れた鬢(びん)を洗って直したという泉もある。
時に景時六十一歳、長男景季三十九歳、二男景高三十六歳でした。(静岡見て歩きから転載)
梶原景時の辞世
「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ」
その後鎌倉幕府は弱体化し南北朝時代をむかえ、足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を開く。
]]>
静岡の日本史シリーズ 『築山殿の出身地』
http://drss.exblog.jp/30296827/
2020-11-17T08:41:00+09:00
2023-01-09T08:36:17+09:00
2020-11-17T08:41:13+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
歴史に詳しい友人と瀬名を巡る。
瀬名氏広と今川義元妹との間に生まれた娘が瀬名姫。
娘徳姫(夫信康)からの讒言で織田信長から武田への内通を疑われ築山殿と長男信康の処刑を命じられ死に追い込まれる。
瀬名の光鏡院は今川一族の瀬名家の菩提寺であり瀬名家初代瀬名一秀公のお墓がある。
お寺の紋章は今川家の紋。
また500回忌を記念して供養塔が建立される。
]]>
静岡の日本史シリーズ 『梶原山の悲劇』
http://drss.exblog.jp/30296737/
2020-11-17T06:34:00+09:00
2020-11-17T06:53:29+09:00
2020-11-17T06:34:05+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
歴史に詳しい友人と巡る。
頂上まで車で細い道をくねくねと行く。
途中、子供たちに道を聞く。
穏やかな登り口を教えてもらう。
頂上に『梶原景時終焉の地と書かれた碑がある。
手を合わせる人もいる。
『梶原景時』は鎌倉時代の武将。
源頼朝と石橋山で対峙したが、密かに危急の頼朝を匿い、後に仕え平家を倒し鎌倉幕府の要職を務める。
頼朝の死後、景時は御家人と対立し失脚。
幕府方は所領がある京にのぼる景時を阻止しようと、地侍に討伐を指令。
梶原親子、一族(33人)は梶原山で自刃する。
辞世の句
『もののふの 覚悟もかかる 時にこそ 心の知らぬ 名のみ惜しけれ』
重用されるも代が変わり、昔からの御家人に排斥され追われる。
いつの時代も変わらぬ人間模様。
サラリーマンにもあてはまり教訓となる。
]]>
静岡の日本史シリーズ 『東海道・丸子宿を歩こうⅤ』馬頭観音
http://drss.exblog.jp/30258860/
2020-10-17T16:08:00+09:00
2020-10-19T09:21:07+09:00
2020-10-17T16:08:14+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
ヒンドゥー教の最高神・ビシュヌが馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話を起源だと初めて知る。
他の観音様は女性的な美しい表情であることが多いですが、馬頭観音は憤怒の形相で表され、馬頭明王と呼ばれる。
怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ尽くし災難を取り除くとされている。
六観音の一つに数えられ、畜生道に迷う人々を救済。
また家畜の安全と健康を祈ったり、旅の道中を守る観音様として信仰。
昔は武家や農民にとって、馬は生活の一部となっており、馬を供養する仏としても信仰される。
レース中の事故で亡くなった馬を供養するために、競馬場の近くにもよく祀られている。(仏像ワールドより転載)
]]>
静岡の日本史シリーズ 『東海道・丸子宿を歩こうⅣ』お七里役所
http://drss.exblog.jp/30257094/
2020-10-16T06:53:00+09:00
2020-10-16T07:08:47+09:00
2020-10-16T06:53:50+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
]]>
静岡の日本史シリーズ 『東海道・丸子宿を歩こうⅢ』水神社
http://drss.exblog.jp/30256274/
2020-10-15T12:24:00+09:00
2020-10-16T07:07:40+09:00
2020-10-15T12:24:00+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
『水神社』は全国にあると知る。
水神社は丸子川の川沿いにあり氾濫の沈静を祈り、犠牲者を弔う。
]]>
静岡の日本史シリーズ 『東海道・丸子宿を歩こうⅡ』高札場跡
http://drss.exblog.jp/30256047/
2020-10-15T08:34:00+09:00
2020-10-15T12:11:22+09:00
2020-10-15T08:34:22+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
丸子に何回も行っているが、新しい発見がある。
高札場跡を案内してくれる。
日常生活の心得が記載されている。
贅沢は慎みなさいとか、忠義や孝行を奨励するなど書かれている。
また死罪を申し渡された場合、呼び出されたもの以外は集まってはいけない等、当時を知ることが出来る。
]]>
静岡の日本史シリーズ 『今川館』址に豊臣秀吉の城址を見つける
http://drss.exblog.jp/29252860/
2019-02-12T19:48:00+09:00
2019-02-12T20:41:31+09:00
2019-02-12T19:48:53+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
発掘現場を歴史好きの友人と訪ねる。
特定はされていないが今川館の調査の予定はあると聞く。
現在、豊臣秀吉の天守台を発掘している。
今川氏の今川舘(駿府城)は武田氏侵攻によって焼失。後にこの地を手に入れた豊臣秀吉は金箔瓦の天守閣を築く。
その後徳川家康は、駿府城を築く。
敗者の上に勝者が城を築く。
世の常だ。
]]>
静岡の日本史シリーズ ロープウェイで『久能山東照宮』を訪ねる
http://drss.exblog.jp/29188076/
2019-01-15T07:45:00+09:00
2019-01-20T05:15:47+09:00
2019-01-15T07:45:05+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。 推古天皇(592- 628年)の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)12月には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。(ウイキペディアより転載)
田辺鶴遊師匠のご縁で姫岡権宮司よりご案内いただき拝殿より本殿を参り、またとない機会に恵まれる。
本殿中央は徳川家康公、右が豊臣秀吉公、左が織田信長公を祀る。拝殿の畳の縁(へり)は広幅の高麗縁(こうらいべり)
御三家クラスの席。
また社務所受付を通ると朱塗りの大きな門が目に入る。
楼門という2階建ての門。
軒下中央に第108代後水尾(ごみずのお)天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げてある為、「勅額御門(ちょくがくごもん)」とも言われる。
]]>
静岡の日本史シリーズ 『清水港船宿記念館 末廣』
http://drss.exblog.jp/29188028/
2019-01-15T06:51:00+09:00
2019-01-15T18:05:36+09:00
2019-01-15T06:51:42+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
コースは駿府城公園⇒梅蔭禅寺⇒壮士の墓⇒清水港船宿記念館『末廣』⇒日本平⇒久能山東照宮⇒日本平夢テラス。船宿「末廣」では、清水次郎長が清水港振興に尽力した晩年の姿を知ることができる。幕末から明治を駆けぬけた次郎長と清水港の様子を、今に伝える貴重な建築物。明治維新前の次郎長は「弱きを助け、強きをくじく」任侠の親分として活躍し、講談、浪花節、小説、映画などで語りつがれ民衆文化のヒーロー。明治維新を契機に次郎長の人生は社会事業家として180度の転身。明治元年の旧幕府の軍艦「咸臨丸」の犠牲者を手厚く葬ったことにより、山岡鉄舟と出会い、影響を受ける。
富士裾野の開墾やお茶輸出による清水港の発展に尽力。
晩年は船宿末廣を経営し、日露戦争で活躍した広瀬武夫や小笠原長生、画家の富岡鉄斎などが訪れ、交流を深める。
次郎長は74歳でその激動の生涯を閉じる。(駿河企画観光局のホームページより転載)
地元に長年住んでもよく知らないでいる。今回の講談修学旅行であらためて静岡の日本史を学ぶ。]]>
静岡の日本史シリーズ 『壮士の墓』
http://drss.exblog.jp/29188022/
2019-01-15T06:42:00+09:00
2022-05-16T08:52:40+09:00
2019-01-15T06:42:47+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
]]>
静岡の日本史シリーズ 『勝海舟の母親の住まい跡』
http://drss.exblog.jp/28219241/
2018-03-30T07:48:00+09:00
2022-01-09T05:54:47+09:00
2018-03-30T07:48:15+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
明治維新後第15代徳川慶喜将軍の後を追って静岡に居を構えた勝海舟は母の隠居所として門屋の白鳥家の一寓を借り、その後要人との会談場所としても使用したという。
]]>
静岡の日本史シリーズ 徳川家康公の鷹狩り用の『麻機御殿』
http://drss.exblog.jp/28121265/
2018-02-13T17:17:00+09:00
2020-01-11T06:33:49+09:00
2018-02-13T17:17:47+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
徳川家康公の鷹狩りの休憩所として『麻機御殿』があったとされ、その入り口を大門というらしい。
拙宅の前が通ったと思われる麻機街道。
又この通りには日本武尊が東征の折り立ち寄ったと思われる『皇の池』跡がある。
徳川家康公は隠居場所駿府に於いて、鷹狩りに通ったという。
その近くに『羽高』という地名があり、『石高』では年貢を納められず、鳥を捕獲して納めたという。
また麻機街道には『皇の池』という地名があり、池は枯れて存在しないが、日本武尊が東征のおり、人馬を休めた場所だとロマンをかきたてる。
]]>
静岡の日本史シリーズ 駿府で日本史を知る
http://drss.exblog.jp/27028910/
2017-08-04T05:15:00+09:00
2017-08-04T06:55:51+09:00
2017-08-04T05:15:01+09:00
drss0123noborui
静岡の日本史
静岡市葵区の鷹匠にある華陽院(けよういん)は、玉桂山華陽院と号し、浄土宗に属する寺院。
華陽院の始まりは、永正9年(1512)、知短(ちたん)上人開基による真言宗の寺で、知源院(ちげんいん)と呼ばれる。
慶長14年(1609)、徳川家康が大御所として駿河に引退し、源応尼(げんおうに:家康の祖母)の50回忌の法要を営んだ際、その法名から寺名を改め華陽院としました。
華陽院は家康の祖母・源応尼の菩提寺。
境内には源応尼の墓と家康の五女・市姫の墓が並び、近くには側室のお久の方の墓がある。
寺宝として、家康が使った団扇(うちわ)や市姫が使ったひな屏風(びょうぶ)などがある。(Tabi2 Ikitaiより転載)
他に日本史に関わる寺院として臨済寺は今川義元の軍師といわれた雪斎禅師が、義元の兄・氏輝(うじてる)の菩提寺として建立。
また家康が幼少期、雪斎禅師から教育を受けた寺として知られる。
静岡浅間神社は今川、武田、徳川と駿府の支配者として代々信仰した神社で知られる。
また家康が元服式をあげたという。
清見寺は奈良時代の建立。
雪斎禅師が復興。
江戸時代、朝鮮通信使をもてなした場所。
宝台院は三方ヶ原の戦い、長篠の戦、小牧・長久手の戦いで家康を支えた『西郷の局』のお墓がある。
『西郷の局』は秀忠の母。
竜雲寺は今川義元の母・寿桂尼がひらいた寺でお墓もある。
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/