2008/7/10
森と湖のフィンランドのヘルシンキに入る。北欧の定義があるのかと調べてみた。北欧とは北ヨーロッパのスカンディナヴィア諸国、フィンランド、アイスランドの5ヶ国の総称であることを知る。スカンディナヴィア諸国とはデンマーク、ノルウェー、スウェーデンを指す。
ヘルシンキの町を走る路面電車と石畳が絵になる。
女性の社会的進出がさかんで、国会議員の半数近くが女性という国、また閣僚も同じく女性の活躍が目を見張る。こちらでは男女の区別はなく人間としてどう生きるかを、家庭や学校で小さいころから教育されている。
特に知られていることとして学校教育で、日本より多くの休みがあるにもかかわらず、宿題もなく、しかも世界的に教育レベルが高い。日本ではゆとり教育の見直しをしており、日本からフィンランドへの学校教育の視察が盛んなようだ。フィンランドには有名な携帯電話メーカーのノキヤがあることを知らなかった。
歴史的には1155年、スウェーデン王エーリク9世は北方十字軍の名のもと、フィンランドを征服し、同時にキリスト教(カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。
1581年にはフィンランドの独立が模索された結果、フィンランド公国がスウェーデン王国を宗主国とする形で建国が宣言された。
1700年から始まった大北方戦争の結果の1721年のニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)をロシア帝国に割譲された。
ナポレオン戦争ではスウェーデンの敗北で、1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後スウェーデンが戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンにもどらず、ロシアに留め置かれた。
19世紀の民族主義の高まりはフィンランドにも波及し、「カレワラ」の編纂など独自の歴史の探求が研究された。その一方でロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まった。
1899年には、ニコライ2世がフィンランドの自治権を廃止すると宣言したため暴動が発生。ロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事にいたり、ついに1905年には「自治権廃止」は撤回された。
1917年にはロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言した。その後マンネルヘイムが左翼の反乱を鎮圧し、1919年にはフィンランド共和国憲法が制定された。
しかし、独立後の政情は不安定で1921年にスウェーデンと領土問題で争い(オーランド諸島)、さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土の10分の1を失った。
第二次世界大戦(継続戦争)ではソ連と対抗するために枢軸国側に付いて戦い、一時は冬戦争前の領土を回復したが、ソ連軍の反攻によって押し戻され、1944年にソ連と休戦。休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦った(ラップランド戦争)ものの、敗戦国として終戦を迎えた。
戦後はソ連の勢力下に置かれ、ソ連の意向によりマーシャル・プランを受けられず、北大西洋条約機構にもECにも加盟しなかった。
自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわら、外交・国防の面では社会主義陣営に近かったが、ワルシャワ条約機構には加盟しなかった(ノルディックバランス)。
この微妙な舵取りのもと、現在に至るまで独立と平和を維持した。ソ連崩壊後には西側陣営に接近し、1994年にはEU加盟に合意。2000年にはユーロを導入した。いまや世界で最も高い先進民主主義国であり、福祉国家となった。(ウィキペディアより転載)