2007/12/22
豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条方の和戦の評定が容易に決定しなかったところから、長引いて容易に結論の出ない会議・相談を『小田原評定』というのは知っていたが、小山評定も歴史上、重要な軍議であったことは知らなかった。
慶長5年(1600/7/24)、徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく小山に到着。このとき、石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌25日この地において軍議が開かれ、これが「小山評定」といわれるもの。
軍議は、3間4方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本多忠勝、本多正信、井伊直政や福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。福島正則が協力を誓い、山内一豊は掛川城を差し出すと言い、これをきっかけに軍議は家康の思惑通り決まる。
同年9月25日、関ヶ原の戦いがおこななわれ、東軍(徳川方)の勝利にむすびついた歴史上重要な所。(栃木の城ホームページより転載)
小山市の審査先で伺った話で小田原評定と比較して興味を持ったが、小山評定は結論のでない長引く軍議ではなかったようだ。