聖路加国際病院理事長 日野原重明氏の言葉は重い。
プレジゼントによれば日野原重明氏は1970年3月31日、日航機「よど号」のハイジャック事件に巻き込まれました。
あの日は、学会に出席するため羽田から福岡に向かっていました。
飛行機が富士山頂に差しかかる頃、9人の若者が突然立ち上がり、日本刀を抜いたリーダーらしき人物が「我々日本赤軍は、この機をハイジャックした。
これから北朝鮮の平壌に行く!」と叫んだのです。
彼らは手分けして、乗客とスチュワーデス120人あまりの手を麻縄で縛りました。
「大変なことになった」と思った私は、自分の気持ちを確かめるため、そっと脈を測ると平常より幾分速い。
やはり動揺していたのでしょう。
そのとき脳裏に浮かんだのが、子どもの頃から習い親しんでいた聖書の一節でした。
「マタイによる福音書」8章26節の「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」という言葉です。
イエスがガリラヤ湖に弟子たちと釣りに行ったとき、にわかに暴風に襲われ、舟は波にのまれそうになりました。
恐れおののく弟子たちをイエスがこう叱咤し、風と湖をなだめると嵐は静まったのでした。
と同時に、尊敬していたウィリアム・オスラー医師の言葉を思い出しました。
先生は「医師はどんなときでも平静の心を持つべきだ」と説いていたのです。
私も「とにかく落ち着こう」と自分に言い聞かせました。
朝鮮海峡上を飛んでいるとき、「機内に持ち込んでいる赤軍機関誌と、その他の本の名を放送するから、何を読みたいか、手を挙げよ」と言って金日成や親鸞の伝記、伊東静雄の詩集、次いでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などを挙げたところ、乗客の誰も手を挙げませんでした。
私1人だけが、『カラマーゾフの兄弟』を借りたいと手を挙げたら、文庫本5冊を膝に置いてくれました。
本を開くと、冒頭の言葉が目に飛び込んできました。
「1粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ1つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネによる福音書12章24節)
機内へ強行突入があれば、私は死ぬかもしれないが、その死は何かの意味を持つのではないか……。
先の2つの言葉と、文庫本を膝の上にして、私の気持ちは少し楽になったのです。
幸い、私は無事に帰還できました。
解放されて韓国の金浦空港の土を靴底で踏んだとき、感謝の念とともに「これからの人生は与えられたものだ。
誰かのために使うべきだ」と感じました。
還暦を目前にして、そう思えたことが私の人生の後半を決めてくれたのです。
人間は生死にかかわる事態に遭遇すると生き方が変わると教わる。