2010/4/1 今日は教覚寺の門信徒会例会に参加する。毎月1日で日にちが定まっているが、生来の怠け者でたまにでかける。
月1回の住職さんの法話があり気付きを与えられる。一か月はあっという間に来るので法話や月報の準備、また多数ある年間行事をすすめていくのは凡人から見てまさに『行』であるかもしれない。
今回は二尊についてである。京都に二尊院があり、向かって右の釈迦如来は現世から来世へと送り出す役割を持ち、左の阿弥陀如来は極楽浄土へ迎え入れる役割を果たすといわれる。
また釈迦如来は教え主、阿弥陀如来は救い主とも解釈され、釈迦は慈父(じぶ)、弥陀は悲母(ひも)なりともいう。
さらに釈迦如来は人格化されているが、阿弥陀如来は人格化されておらず、すべての事象が直接間接の原因によって生起するという縁起法と捉えることもできるという。宗派によっても教義が異なるのか凡人が理解するには時間がかかりそうだ。
雑駁であるが二尊の役割の意味は複数あり、光の当て方で解釈が異なるものの、異なるから間違っているとは言えないようだ。
そして南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えることは『お陰さまで 感謝します』と同義であるという示唆もある。
つまるところ一つ一つの行事や勤め、言葉や立ち居振る舞いを軽んじたり、疎かにしないということか。毎日仏壇に手を合わせることも勤めとすれば反省しきりである。