仕事で浜松に来る。南口周辺は夕方、うなぎのにおいで一杯だ。においに誘われ久しぶりにうなぎ専門店で夕食とする。ここには出世城といわれる浜松城がある。
武田軍との三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)では徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで逃げ帰った城が浜松城。
この時の家康は恐怖のあまり脱糞したとも伝えられ、後の伊賀越えと並んで
人生最大の危機とも言われる。
浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして、二度と同じ目にあわないと誓う意味で有名な
顰像(#顰像(しかみ像))を描かせると、湯漬けを食べてそのまま鼾を掻いて眠り込んだと言われる。(ウイッキペディアより転載)