2009/5/2 浄土真宗本願寺派教覚寺の門信徒会例会に初めて出席する。本尊 阿弥陀如来の本堂の前で住職さんの説法を伺う。
今回の門信徒会例会で「仏法不思議ということは 弥陀の弘誓になづけたり」という『高僧和讃ー曇鸞讃』について。
「凡夫が仏になる」「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということほど不思議なことはなく、不思議のままに「そうでしたか、ありがたいことです」と聞いていくことが大切だと。
仏さまのお悟りを凡夫が理解しようとするのは身の程知らず。「この私を救わずにはおれない」と誓って下さったのが、阿弥陀。そして、あらゆる手はずを整えて、「南無阿弥陀仏」というたった六字のみ名となって私に至り届いて下さいました。もう心配はいりませんと説く。
凡夫である小生にとって、己の狭量のせいか、五臓六腑にしみわたらない。その境地に至らず。しみわたらないという心の抵抗が、身の程知らずとなり理解を邪魔しているのか。多分そうだろう。素直でないのか内省するも答えは見つからない。まさに凡夫。但し阿弥陀如来を前にして己の荒んだ心が和らぐひとときを感じる。だが己の業を死に際まで引きずるだろう。悟りとは?
例会の最後には、金子みすゞ詩・南荘宏曲「ふしぎ」をみんなで歌う。次々と新規事業を立上げ達成する住職さんの複数に亘るパワフルな活躍の領域を知り圧倒される。何処までいくのか目が離せない。